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ニーズがウォンツをソリューション(作:ひのきだに)
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親友のまこつ君のススメで、昨日は明治の文豪たちが過ごした湯河原に一人、はやくも疲れてしまった体を休めに1泊2日旅行にいってきました。

関東のいい雰囲気を残したよい場所でした。

自然が、やっぱり必要。
夕方頃、時間があったので不動滝という滝を見に行きました。
比較的小さくて、あまりすごみのある滝ではないのですが、そこは東京にはない五感の宇宙でした。

滝から来る水しぶき、涼しい風、水や緑のにおい、木々のこすれる音、蝉や多くの虫の声、滝の音、水が流れる音が体の周りを渦巻く。ぐるぐるなるぐらいあちこちから聞こえる。

もう方向とか、音程とか涼しいとかそんなものではなかった。
どうしようもないぐらい強くて、あたたかな圧倒的なパワー。
ああ、これが神様なんかもしらん。
ああ、怖い。
そうだ、あれは一種の恐怖感だ。

徐々に真っ暗になるんだけど、途中から怖くなってきたので宿へ戻る。
で、のんびり温泉に入り、本を読みながら寝る。

が、静かで、集中しているせいか、普段より余計なしょうもないことに頭を悩ます。

今の歯医者は治療が荒い気がする。とか
最近、右足が痛いのは実はなんかの病気なんじゃないか。とか

一人で勝手にテンションを下げる。

でも今考えてみると、それも怖かったのをごまかすための自己防衛だったのかもしれない。
(おれによくあるパターン。なにかあると全然関係ないことに腹を立てたりする)

夜の湯河原は、東京に来てから感じたことがないくらい、自然な時間が流れ、外には自然な音だけが鳴っていた。
そんな中で電気を消していると、自然の音だけが聴こえる吸い込まれるような闇に恐怖を感じていたのかもしれない。でも、不思議とリラックスもしていたと思う。

逆に都会は楽なんだ。
テレビを見て、音楽聴いて、人や街並に流されていれば、そういう類いの恐怖は感じない。
だから、疲れるのかもしれない。
自然は、絶対的な恐怖感で人の心を守ってくれているのかもしれない。


おまえの武器やあらゆるものは
おまえにくらくおそろしく
まことはたのしくあかるいのだ


そんなこんなで気がつけば朝。万葉公園へ。
のーんびりして、お風呂に入る。
気持ちよくなって出たところ、上着がロッカーの端に引っ掛かり音を立てて破ける。

オキニだったのに。
ちょー最悪。
まじ最悪なんですけどー。

ここでは普通にテンションが下がる。
で、下がったテンションのまま湯河原を後にし、そのまま千葉に帰ってきたのでした。



ああ、もう12時すぎてるじゃないか。
寝なければ。


つづく
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最近、残業が増えてきてなかなか日記も書けなくなってきているのですが、ちょっとでも更新します。

会社の帰り道にツタヤがあります。
原木中山にはホームシアターというレンタルビデオ屋(200809現在でも非常にお世話になっております。原木の皆様はみんな行こう!)しかないので、うれしくてCDを借りまくってます。

で、大好きなJB’sを借りました。
そしたらそのアルバムの中に、ギルバートオサリバンの「alone again」のカバーが入っていた。

この曲、大好き。
昔バンドでやったことがあるので本当にいろんな感情がこみ上げてくる曲です。
http://jp.youtube.com/watch?v=D_P-v1BVQn8これです。

で、次の日さっそく本物をかりにいく。
いいんだなー。

でも思う。
みんながみんな個人的に好きな曲、思い入れがあったりする曲があると思います。
じゃあ、すべての背景、思い出をのぞいたら絶対的に感じ取るものってあるんだろうか?

答えはよくわからん。

でも、こういう懐かしさ的な感覚は一種、快感に近いもので気分がとてもいい。
大事にしよう。

おやすみなさい。

映画「ドリームガールズ」を見る。

好きです、アメリカ黒人商業音楽!!
わおー!!!すべてが詰まってる!!!

やっぱりこの時代の音楽は大好き。
いいよ、いいよ、このストレートさ。

そして、ビヨンセが不気味なほど美しい。ほんとに。
動きがね、これこそ本物のスター。
はー、これはすごいね。もはや同じ人間には見えない。

生きてる!!!
踊る、踊る!!!



「永遠のモータウン」も買おうかな。
うちの部署の業務は非常にややこしいので、よく話を見失う。
リアルタイムにメモを書くけど、そうするとなおさら追いつかない。

「ひ〜、追いつきません。ごめんなさい、もう一回お願いします。」
「もー。こないだもいったでしょーがー。」
「申し訳ないっす」

という流れの繰り返し。

得意の必殺「聞き流し」「わかったふり」をしてしまうと二度と業務に追いつけなさそうな感じをしてあんまりできない。あたりまえだけど。
それで人生をのりきってきたおれの歪みがはやくも発生していることを感じる。

ああ、昔は暗記パンがほしいと思ってたけど、あれは本しかうつせないからなー
デジタル暗記パンないかな。USB端子搭載でハードディスクが40Gぐらいあるパン。


「じゃあ、今日の会議のデータはパンに焼いといて」
「でも課長、今日のパンはアイオーデータの安いやつなんで、食べたらおなかとデータがこわれるかもしれません。」
「くそー、じゃあどうしようかな。あー、ワイヤレスで食べれるパンがあったらいいのに」

とか

「いまのわかいもんはデジタル暗記パンとかいうもんを焼いてなんでもかんでもポンポン食べて記憶しちまう。ああ、昔は、それこそ1ページごと丁寧にパンに写して味を噛み締めながら徹夜でたべていたもんさ。それが勉強っちゅうもんだ。それを楽しやがってデジタルだかモルタルだか知らんが、あんなパサパサしたまずいもん食えるか!!大体いまのわかいもんは……ごちゃごちゃ」


とか変な未来?を想像しながら、今日もACCESSで莫大な情報をまとめるクエリーをつくり、会議の準備。

一番苦手な効率性を求められていることをひしひしと感じる。
動きを改めないとなー。
これを機会にこまめな人になったりしないかな。

ちょっとがんばってみよう。

いまの職場はお姉様ばかり。
しかし、小さい頃から女性の中で育ってきたので、不思議とすごしやすかったりもする。
そんなお姉様たちからの叱咤激励の中、なんやかんやで結局かわいがっていただいております。

やはり25年間の弟としての経験は偉大。
宮沢賢治の書いたものを読んでいると、かたくななまでの自己批判から発生し世の中に回帰するような表現、その輪廻的なループ中で人生に悩み苦しむ様におれの理解が追いつかなくなる。

おれのいままでの人生ではこの人の感覚には到底追いついていけるものではないことに気づく。
ということで、多少調べてみると、彼は非常に複雑な環境で育ってきたことがちょっとわかってきた。

賢治の生家は質屋と古着商をかねた地元の裕福な商家であり、弱者の生活を圧迫する家業と父に嫌悪しながら、それとは背反するかのような深い愛情の中で自分が生かされているという矛盾に幼い頃から悩んでいたらしい。
そんな12歳の頃の詩にこういうのがある。

我が父よ などて かのとき 舎監らの前を去るとき 銀時計まきたりしや
左側にて足をそべらかし 体操の教師とかいう かの舎監わらいしものを

舎監というのは宿舎の監督者のことで、
要は、金持ち趣味の父がそれをみせびらかせるために舎監の前でわざと銀の時計のねじを巻く。それを陰で蔑まれているとも知らずに。

という、父親の羞恥に対する嫌悪感むき出しの内容である。しかし、父親の一面を嫌悪するものであって、存在自体を嫌悪していたわけではないらしい。

われは古着屋のむすこなるが故にこのよろこびを得たり
みたいな文章もあったりする。

そんな善意と悪意の矛盾の中で揺れ動く賢治自身にとって、
自分という存在は修羅なんだ
というような文もよく出てくる。

どっかのサイトによると「修羅とは阿修羅の略で、地獄道、畜生道、餓鬼道と人間道との中間にあって、悪意と善意とが自己の内部で対立し構想する存在であり、それゆえに苦悩する存在である。」と書いてあった。(あの四方に顔がある神様。キン肉マンにも似たような超人がでてくる。)

まえに書いた「ビジタリアン大祭」でも生き物がほかの生き物を食べること、特に自然淘汰的な原理を非現実的に排除したかのような現代で、進化という名前で進む人間の生物的な矛盾への苦しみを表現したかったかもしれない。

社会に出ると、こんな根深いものではないけどいろーんな矛盾を感じることがある。
ひとりの幸せがみんなの幸せではないような。ある種、自分の思う道と違うことに従うこと、競争することがサラリーマンの使命であるような。
おれは現在、そんなに圧力をかんじるような状況じゃないんだけど(むしろ非常にストレスレス!!)、同期の話を聞いていたりするとふと、考えたりしてしまう。

銀河鉄道の夜での最後のほうで、ジョバンニが
「僕はあのさそりのように本当にみんなの幸せのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」というと、
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。

というくだりがある。
友人の生命をたすけて死んでしまうカンパネルラにさえもこの問いはわからないのである。
(最後、ジョバンニは自身の考えを昇華し、希望を胸に現実の中に戻っていく。)

どこまでの自己犠牲にどこまでの意義を見いだすか。
そんなことを宮沢賢治について調べた上で改めて文章を見ると思う。


いかりのにがさまた青さ
四月の気層の光の底を
唾し、はぎしりゆききする
おれもひとりの修羅なのだ!!!!
プロフィール
HN:
オチタカユキ たかりんく
年齢:
41
性別:
男性
誕生日:
1982/07/13
職業:
会社員
趣味:
趣味を増やすこと
自己紹介:
通信系の企業で働いています
今年からはフジテレビの見えるビルでノビノビしてます。夜景がきれい


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