ニーズがウォンツをソリューション(作:ひのきだに)
宮沢賢治の書いたものを読んでいると、かたくななまでの自己批判から発生し世の中に回帰するような表現、その輪廻的なループ中で人生に悩み苦しむ様におれの理解が追いつかなくなる。
おれのいままでの人生ではこの人の感覚には到底追いついていけるものではないことに気づく。
ということで、多少調べてみると、彼は非常に複雑な環境で育ってきたことがちょっとわかってきた。
賢治の生家は質屋と古着商をかねた地元の裕福な商家であり、弱者の生活を圧迫する家業と父に嫌悪しながら、それとは背反するかのような深い愛情の中で自分が生かされているという矛盾に幼い頃から悩んでいたらしい。
そんな12歳の頃の詩にこういうのがある。
我が父よ などて かのとき 舎監らの前を去るとき 銀時計まきたりしや
左側にて足をそべらかし 体操の教師とかいう かの舎監わらいしものを
舎監というのは宿舎の監督者のことで、
要は、金持ち趣味の父がそれをみせびらかせるために舎監の前でわざと銀の時計のねじを巻く。それを陰で蔑まれているとも知らずに。
という、父親の羞恥に対する嫌悪感むき出しの内容である。しかし、父親の一面を嫌悪するものであって、存在自体を嫌悪していたわけではないらしい。
われは古着屋のむすこなるが故にこのよろこびを得たり
みたいな文章もあったりする。
そんな善意と悪意の矛盾の中で揺れ動く賢治自身にとって、
自分という存在は修羅なんだ
というような文もよく出てくる。
どっかのサイトによると「修羅とは阿修羅の略で、地獄道、畜生道、餓鬼道と人間道との中間にあって、悪意と善意とが自己の内部で対立し構想する存在であり、それゆえに苦悩する存在である。」と書いてあった。(あの四方に顔がある神様。キン肉マンにも似たような超人がでてくる。)
まえに書いた「ビジタリアン大祭」でも生き物がほかの生き物を食べること、特に自然淘汰的な原理を非現実的に排除したかのような現代で、進化という名前で進む人間の生物的な矛盾への苦しみを表現したかったかもしれない。
社会に出ると、こんな根深いものではないけどいろーんな矛盾を感じることがある。
ひとりの幸せがみんなの幸せではないような。ある種、自分の思う道と違うことに従うこと、競争することがサラリーマンの使命であるような。
おれは現在、そんなに圧力をかんじるような状況じゃないんだけど(むしろ非常にストレスレス!!)、同期の話を聞いていたりするとふと、考えたりしてしまう。
銀河鉄道の夜での最後のほうで、ジョバンニが
「僕はあのさそりのように本当にみんなの幸せのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」というと、
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
というくだりがある。
友人の生命をたすけて死んでしまうカンパネルラにさえもこの問いはわからないのである。
(最後、ジョバンニは自身の考えを昇華し、希望を胸に現実の中に戻っていく。)
どこまでの自己犠牲にどこまでの意義を見いだすか。
そんなことを宮沢賢治について調べた上で改めて文章を見ると思う。
いかりのにがさまた青さ
四月の気層の光の底を
唾し、はぎしりゆききする
おれもひとりの修羅なのだ!!!!
おれのいままでの人生ではこの人の感覚には到底追いついていけるものではないことに気づく。
ということで、多少調べてみると、彼は非常に複雑な環境で育ってきたことがちょっとわかってきた。
賢治の生家は質屋と古着商をかねた地元の裕福な商家であり、弱者の生活を圧迫する家業と父に嫌悪しながら、それとは背反するかのような深い愛情の中で自分が生かされているという矛盾に幼い頃から悩んでいたらしい。
そんな12歳の頃の詩にこういうのがある。
我が父よ などて かのとき 舎監らの前を去るとき 銀時計まきたりしや
左側にて足をそべらかし 体操の教師とかいう かの舎監わらいしものを
舎監というのは宿舎の監督者のことで、
要は、金持ち趣味の父がそれをみせびらかせるために舎監の前でわざと銀の時計のねじを巻く。それを陰で蔑まれているとも知らずに。
という、父親の羞恥に対する嫌悪感むき出しの内容である。しかし、父親の一面を嫌悪するものであって、存在自体を嫌悪していたわけではないらしい。
われは古着屋のむすこなるが故にこのよろこびを得たり
みたいな文章もあったりする。
そんな善意と悪意の矛盾の中で揺れ動く賢治自身にとって、
自分という存在は修羅なんだ
というような文もよく出てくる。
どっかのサイトによると「修羅とは阿修羅の略で、地獄道、畜生道、餓鬼道と人間道との中間にあって、悪意と善意とが自己の内部で対立し構想する存在であり、それゆえに苦悩する存在である。」と書いてあった。(あの四方に顔がある神様。キン肉マンにも似たような超人がでてくる。)
まえに書いた「ビジタリアン大祭」でも生き物がほかの生き物を食べること、特に自然淘汰的な原理を非現実的に排除したかのような現代で、進化という名前で進む人間の生物的な矛盾への苦しみを表現したかったかもしれない。
社会に出ると、こんな根深いものではないけどいろーんな矛盾を感じることがある。
ひとりの幸せがみんなの幸せではないような。ある種、自分の思う道と違うことに従うこと、競争することがサラリーマンの使命であるような。
おれは現在、そんなに圧力をかんじるような状況じゃないんだけど(むしろ非常にストレスレス!!)、同期の話を聞いていたりするとふと、考えたりしてしまう。
銀河鉄道の夜での最後のほうで、ジョバンニが
「僕はあのさそりのように本当にみんなの幸せのためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」というと、
「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
というくだりがある。
友人の生命をたすけて死んでしまうカンパネルラにさえもこの問いはわからないのである。
(最後、ジョバンニは自身の考えを昇華し、希望を胸に現実の中に戻っていく。)
どこまでの自己犠牲にどこまでの意義を見いだすか。
そんなことを宮沢賢治について調べた上で改めて文章を見ると思う。
いかりのにがさまた青さ
四月の気層の光の底を
唾し、はぎしりゆききする
おれもひとりの修羅なのだ!!!!
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プロフィール
HN:
オチタカユキ たかりんく
年齢:
42
性別:
男性
誕生日:
1982/07/13
職業:
会社員
趣味:
趣味を増やすこと
自己紹介:
通信系の企業で働いています
今年からはフジテレビの見えるビルでノビノビしてます。夜景がきれい
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